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暁(あかつき)は、日本海軍の駆逐艦〔#達昭和5年3月p.10『達第二十四號 艦艇製造費ヲ以テ本年建造ニ着手ノ一等驅逐艦四隻ニ左ノ通命名ス 昭和五年三月十五日 臨時海軍大臣事務管理 内閣総理大臣 濱口雄幸|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 暁アカツキ|舞鶴要港部工作部ニ於テ建造 響ヒビキ|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 雷イカヅチ|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 電イナヅマ』〕。一等駆逐艦吹雪型(白雪型)(特型)の21番艦(III型の1番艦)、朧型(吹雪型の後期型)〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.160『朧型〔八隻〕 暁(あかつき)【二代】』〕。日本海軍で暁を名乗るのは暁型駆逐艦1番艦と〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.75〕、ロシアからの捕獲艦で一時的に名乗った駆逐艦山彦〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.76『山彦(やまびこ) 舊露國驅逐艦、原名「レシテルヌイ」、明治37年8月10日芝罘にて捕獲、沈没驅逐艦暁の一時代艦として使用す(注:誤り)、同38年1月17日帝國驅逐艦と定め「山彦」と命名す(注:誤り)、大正6年4月1日除籍。〕に続いて3隻目。 == 艦歴 == === 太平洋戦争開戦まで === 1928年(昭和3年)6月16日、日本海軍は今後建造予定の吹雪型駆逐艦4隻について暁、響、雷、電の艦名を内定する〔#駆逐艦命名の件p.3『艦名ハ昭和三年六月十六日官房第二一四五號決裁済』〕。駆逐艦暁は1930年(昭和5年)2月17日、佐世保海軍工廠で起工〔#授受起工に関する件p.2『駆逐艦暁二月十七日午前九時三十分佐世保工廠ニ於テ起工ス』〕〔#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『暁|一等駆逐艦|(艦要目略)|佐世保工廠|5-2-17|7-5-7|7-11-30|(艦装備略)』〕。同年3月15日、建造中の吹雪型4隻は正式に暁、響、雷、電と命名される〔。 1932年(昭和7年)5月7日午前8時15分、暁は進水した〔〔『○驅逐艦進水 佐世保海軍工廠ニ於テ建造ノ驅逐艦暁一昨日七日午前八時十五分進水セリ』〕。 5月16日、日本海軍は高橋一松少佐を暁艤装員長〔昭和7年5月17日 官報第1611号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958082 p.6〕に任命した〔高橋(少将)は、第二海上護衛師団司令として松型駆逐艦1番艦松沈没時に戦死した。〕。 5月19日、吹雪型姉妹艦2隻(狭霧、漣)により第10駆逐隊(駆逐隊司令栗田健男中佐)が編制される〔昭和7年5月20日 官報第1614号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958085 p.4〕。栗田司令は司令駆逐艦を狭霧に指定した〔『○司令驅逐艦指定 第十驅逐隊司令ハ昨十九日司令驅逐艦ヲ狭霧ニ指定セリ』〕。 8月20日附で高橋は暁初代艦長となり、幹部達もそれぞれ任命された〔昭和7年8月25日 官報第1697号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958168 p.3〕。 11月18日、暁艤装員事務所を撤去〔『○事務所撤去 驅逐艦暁艤装員事務所ヲ佐世保海軍工廠内ニ設置中ノ處本月十八日撤去ス』〕。同年11月30日に竣工〔〔特III型の1番艦ではあるが、進水・竣工・就役はいずれも3番艦雷と4番艦電の方が先であった。〕。竣工と同時に第十駆逐隊に編入され、同隊は3隻(狭霧、漣、暁)となった。 12月1日、栗田大佐は第12駆逐隊司令へ転任、それまで第11駆逐隊司令だった加藤仁太郎大佐(駆逐艦深雪初代艦長等を歴任)が後任の第10駆逐隊司令となる〔昭和7年12月02日 官報第1778号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子info:ndljp/pid/2958249 p.9〕。 1933年(昭和8年)10月、第二水雷戦隊に編入。11月15日、加藤(10駆司令)は第8駆逐隊司令へ転任〔昭和8年11月16日 官報第2064号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子info:ndljp/pid/2958537 p.8〕。第30駆逐隊司令原顕三郎大佐が、後任の第10駆逐隊司令となる〔。 1934年(昭和9年)11月15日、高橋中佐(暁艦長)は第24駆逐隊司令へ転任〔昭和9年11月16日 官報第2364号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958840 p.10〕。二代目暁駆逐艦長は、海軍水雷学校教官橘正雄少佐〔となる〔橘(大佐)は、第三次ソロモン海戦時の第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)司令。〕。また同日附で原(10駆司令)は川内型軽巡洋艦2番艦神通艦長へ転任〔原大佐は、太平洋戦争開戦時の第五水雷戦隊司令官〕〔昭和9年11月16日 官報第2364号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958840 p.9〕。駆逐隊司令は五藤存知大佐に交代した〔。 1935年(昭和10年)11月15日、橘中佐(暁艦長)は吹雪型姉妹艦朝霧駆逐艦長へ転任〔昭和10年11月16日 官報第2663号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959142 p.10〕。勢多型砲艦2番艦比良艦長小田為清中佐が暁および姉妹艦漣の駆逐艦長を兼務する〔〔小田(大佐)は香取型練習巡洋艦1番艦香取艦長となり、1944年2月17日のトラック島空襲で同艦沈没時に戦死。〕。五藤(第10駆逐隊司令)は川内型軽巡3番艦那珂艦長に任命された〔昭和10年11月16日 官報第2663号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959142 p.10〕。 本艦は予備艦となり翌年2月まで性能改善工事を実施した(後述)。 1936年(昭和11年)2月15日、小田中佐は2隻(暁、漣)艦長兼務を解かれ、暁四代目艦長は吹雪型姉妹艦夕霧駆逐艦長成田忠良中佐となった〔昭和11年02月17日 官報第2735号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959215 p.2〕。 12月1日、成田中佐(暁艦長)は第15駆逐隊司令へ転任〔昭和12年12月02日 官報第2976号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959458 p.22〕。暁五代目艦長は吹雪型姉妹艦敷波駆逐艦長佐藤康夫中佐となる〔〔佐藤(大佐)は太平洋戦争開戦時の第9駆逐隊司令、第三次ソロモン海戦では朝雲に座乗。第8駆逐隊司令に転任後、1943年3月3日ビスマルク海海戦において乗艦朝潮沈没時に戦死した。〕。第10駆逐隊司令として板垣盛大佐が着任する〔昭和12年12月02日 官報第2976号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959458 p.21〕。 1937年(昭和12年)7月、第十駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊に編入され、支那事変のため中国北部で船団護衛に従事。 7月6日附で佐藤康夫暁駆逐艦長は朝潮型駆逐艦3番艦満潮艤装員長へ転任する〔昭和12年7月7日 官報第3152号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959635 p.8〕。後任の暁駆逐艦長は篠田勝清中佐〔となる(篠田は7月1日まで軽巡北上副長)〔昭和12年7月2日 官報第3148号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959631 p.10〕。 同年9月に第四水雷戦隊は第三艦隊に編入され、中国南部で沿岸封鎖作戦に従事した。同年10月、第四水雷戦隊は第四艦隊に編入され、杭州湾上陸作戦に参加した。 暁駆逐艦長は10月8日附で篠田から〔後日、篠田は第三十駆逐隊司令、第九駆逐隊司令、軽巡長良艦長、軽巡大淀艦長、戦艦山城艦長等を歴任。山城艦長としてレイテ沖海戦に参加、山城沈没時に戦死。〕、敷設艦厳島副長の荘司喜一郎中佐に交代した〔太平洋戦争開戦時の第16駆逐隊司令。軽巡川内艦長としてブーゲンビル島沖海戦に参加、川内の沈没時に戦死。〕。 1938年(昭和13年)4月、第十駆逐隊は予備駆逐隊となった。5月16日、荘司中佐(暁艦長)は剣埼型潜水母艦1番艦剣埼《祥鳳》艤装員に任命される(11月15日より剣埼副長)。そこで姉妹艦漣駆逐艦長小山猛男少佐が、漣と暁の艦長を兼務することになった〔。 7月22日、板垣(第10駆逐隊司令)は第41駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲、山雲)司令を命じられ、後任の10駆司令は新美和貴大佐となる。 8月1日附で小山は漣・暁駆逐艦長兼務の任を解かれ、川島良雄少佐(峯風型駆逐艦帆風駆逐艦長)が暁駆逐艦長となった。 12月15日、新美(第10駆逐隊司令)は第6駆逐隊司令に転任する。後任の10駆司令は河西虎三中佐。 1939年(昭和14年)2月15日、河西は第二十一掃海隊司令へ転任〔後日、太平洋戦争開戦時の軽巡洋艦「神通」艦長。〕。後任の十駆司令は田原吉興大佐〔。 11月15日附で第10駆逐隊は解隊され、田原は第29駆逐隊司令へ転任 〔後日、第2駆逐隊司令、軽巡那珂艦長、軽巡長良艦長、重巡青葉艦長、軽巡大淀艤装員長、軽巡能代艦長、戦艦山城艦長等を歴任。〕。 漣は第7駆逐隊へ、狭霧は第20駆逐隊に編入される。暁は第6駆逐隊に編入され、同型艦3隻(響、雷、電)と行動を共にした。また新美(第六駆逐隊司令)は第九駆逐隊(第41駆逐隊より改称)司令へ転任〔。後任の第六駆逐隊司令は、第十二駆逐隊司令だった成田忠良大佐に交代する〔。 1940年(昭和15年)3月2日附で第六駆逐隊司令は成田忠良大佐から阪匡身大佐へ交代。 11月、第六駆逐隊は第一艦隊第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将)に編入された。11月1日附で阪(6駆司令)は軽巡夕張艦長へ転任〔後日、重巡足柄艦長、戦艦扶桑艦長。扶桑艦長としてレイテ沖海戦に参加、扶桑沈没時に戦死〕。後任の第六駆逐隊司令は成田茂一大佐(第一掃海隊司令)に交代した〔。 11月15日附で暁駆逐艦長は川島中佐から、峯風型駆逐艦1番艦峯風駆逐艦長青木久治少佐に交代する。 1941年(昭和16年)1月から2月にかけて、第六駆逐隊はタイ・フランス領インドシナ紛争停戦に関わる示威運動のためサンジャック沖に進出した〔#木俣水雷 pp.40-41〕。インドシナからの帰国後は、2月から11月まで浦賀船渠で特定修理が行われた〔#田村 (1) p.52〕。7月17日、第一水雷戦隊旗艦は阿武隈から暁に変更される〔『○旗艦變更 第一水雷戰隊司令官ハ七月十七日旗艦ヲ暁ニ變更セリ/第二潜水戰隊司令官ハ九月一日旗艦ヲ伊號第七潜水艦ニ變更セリ』〕。9月26日、一水戦旗艦は暁から阿武隈に戻った〔『○旗艦變更 第二艦隊司令長官ハ九月二十五日旗艦ヲ高雄ヨリ摩耶ニ變更セリ/第一水雷戰隊司令官ハ九月二十六日旗艦ヲ暁ヨリ阿武隈ニ變更セリ/第一航空艦隊司令長官ハ九月二十七日旗艦ヲ赤城ヨリ加賀ニ變更セリ』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「暁 (吹雪型駆逐艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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